皆さん、こんにちは!先日、ようやく夏物の服を引っ張り出したIkumaです。
多くの観光客が訪れる場所、浅草。
その中でも中心地となるのが浅草寺です。
もちろん浅草寺自身も観光スポットとして多くの人が訪れています。
しかし、過去には何度も災厄に見舞われるなど、いくつもの不幸に見舞われていました。
今回はそんな浅草寺の歴史をご紹介していきます!
- 浅草寺建立
- 浅草寺の興隆
- 災禍からの復活
・浅草寺の歴史:中世
- 坂東三十三箇所に指定
- 江戸幕府からの庇護
- 庶民との関わり
・浅草寺の歴史:近代~現代
- 文明開化
- 戦争による影響
- 現代の姿
・浅草寺の歴史:浅草寺内の各施設
- 本堂
- 雷門
- 浅草神社
浅草寺の歴史:古代
まずは浅草寺が建てられた直後から平安時代までの歴史を見ていきましょう。
浅草寺建立
浅草寺の始まりは、隅田川の近くに住んでいたある漁師の兄弟が、引き上げた網から一つの仏像を見つけたことから始まります。
仏像の事をよく知らなかった兄弟は、その仏像を再度水に戻して、漁を再開しました。
ですが水中に網を投げる度、不思議なことにその仏像は網の中に入ってきます。
仕方なく、兄弟はその仏像を持ち帰ることにしました。
しかし、その仏像を土地の長老に見せた所、こちらが菩薩を模ったことがわかりました。
そして、その長老が自宅をお寺に作り替え、その仏像を祀るようにしました。
このお寺が現在の浅草寺になります。
今から1400年前ほど前の628年、まだ飛鳥時代のことでした。
浅草寺の興隆
仏像が引き上げられてから20年後の645年、勝海上人という僧がお寺に立ち寄り、古くなっていた観音堂を修理しました。
勝海上人の夢の中に観音様が現れ、仏像を「みだりに拝するなかれ」と告げたことから、観音像はお寺の奥で静かに奉安されることになります。
そして、平安初期の857年、比叡山の慈覚大師が浅草寺を訪れ。本格的なお寺を建設します。
以後、浅草寺は宗教的な聖地として、次第に発展していきます。
災禍からの復活
お寺として形になり始めた浅草寺。
しかし、その後1041年に起きた大地震により堂舎が倒壊するなどして、荒れ果ててしまいます。
本堂は再度建設されますが、今度は1079年の火災によって消失します。
そのため、用舜上人という人を中心に1169年から再建が試みられ、もう一度、浅草寺は再興しました。
浅草寺の歴史:中世
災害によって、何度も大きな被害を受けた浅草寺。
しかし平安以降の時代になると、今度は武士による保護が行われるようになります。
坂東三十三箇所に指定
源平の合戦が終わり、源氏一族による武士の統治が始まると、浅草寺に注目が集まります。
きっかけになったのは、源平の合戦です
この源平の合戦で、逃げる平氏たちを追い、源氏の武士たちも西国へ向かいました。
そこで観音様を祀るお寺をまとめた「西国三十三箇所」の存在を知り、仏法への関心を深めます。
そして、鎌倉に戻った武士たちによって、関東にも同じように三十三箇所の巡礼地を定めることになりました。
その際、その1つに浅草寺も入ることになりました。
こちらが現在も続く「坂東三十三箇所」です。
浅草寺は唯一東京都内にある三十三箇所の中のお寺です。
また、戦の前に源頼朝が戦勝祈願に訪れたこともあったそうです。
江戸幕府からの庇護
室町時代になると、浅草寺はご利益のあるお寺として崇められます。
その知名度は高く、足利尊氏もお参りに来るほどでした。
そして、江戸に徳川家康が拠点を置くようになると、浅草寺は祈願所に定められます。
理由としては、江戸城の鬼門に当たる位置に浅草寺があること、徳川家康が尊敬していた源頼朝とも関わりがあったことなどが上げられます。
その後江戸幕府が開かれると、幕府の祈願所として、浅草寺の名前は一層評判になるのでした。
庶民との関わり
江戸時代に入って浅草が発展するにつれ、浅草寺は庶民の憩いの場にもなっていきます。
そのため、浅草寺の広い境内を使用して、見世物小屋や曲独楽、居合抜きの実演などが行われました。
8代将軍徳川吉宗が、浅草寺に立ち寄って曲独楽を見ていた、という話もあります。
この時代の浅草寺の様子は、浮世絵などにも描かれています。
浅草寺の歴史:近代~現代
江戸幕府が倒れ、明治時代が始まると、浅草寺にも新しい時代の流れがやってきます。
文明開化
明治時代になると、浅草寺の近くには歓楽街が作られます。
特に明治の終わりからは映画館が複数営業を開始、浅草寺は浅草と共に一層多くの賑わいを見せていきます。
また、1890年には「凌雲閣」という展望台が作られました。
これは12階の建物で、日本初のエレベーターが備えられていました。
その他、浅草寺のさらに東京大震災の時には境内に多くの人々が避難。
合計で5万人もの人が救われたそうです。
戦争による影響
東京大震災の時にも、無事だった浅草寺。
しかし、第二次世界大戦中で行われた東京大空襲では、本堂などほとんどの施設が焼け落ちてしまいました。
新しい本堂は1951年に起工が開始します。
門徒からの寄付もあって、1958年、無事に復活しました。
また、1960年には松下幸之助からの寄進によって雷門も再建されます。
現代の姿
その後、宝蔵門なども再建され、浅草寺は現在の形に近づいていきました。
現在ではお参りに来る参拝客を始め、海外からの観光客も多く訪れる場所となっています。
お参りの後は、浅草寺の横にある仲見世通りでお土産を買ったりもできますよ!
また、2012年には東京スカイツリーも開業し、現在では1500万人以上の観光客が訪れているそうですよ!
浅草寺の歴史:浅草寺内の各施設
浅草寺の歴史がわかった所で、続いて浅草寺内にある施設の歴史を見てみましょう!
本堂
上述したように浅草寺の本堂は、何度か消失の憂き目にあっています。
しかしその度に再建されており、浅草寺が昔からいかに重要だったのか、伺えます。
ちなみに最も長い期間、本堂として立っていたのは、第二次世界大戦で焼失した旧本堂です。
この旧本堂は1649年に建てられてから、1945年の消失まで300年近く健在でした。
現在の本堂は鉄筋コンクリートにて作られており、今年で51年目になります。
ぜひ旧本堂を超えるまで、元気にあってほしいですね♪
雷門
浅草寺というと、特徴的なのが雷門でしょう。
巨大な門と、垂れ下がっている赤ちょうちんが、何とも印象的です。
雷門は、本堂と同じくくらいの時から建設されていました。
また、雷門にある風神・雷神も同じ時に建設されています。
しかし、1865年に近郊からの失火によって、焼失します。
その後、松下幸之助の寄進があるまで、95年間も雷門は再建されませんでした。
実は風神・雷神の頭部だけは災厄を逃れており、江戸時代から受け継がれています。
雷門にいった時には、東部にも注目してみてください!
浅草神社
浅草寺の隣に、ひっそりとたたずむのが浅草神社です。
浅草寺を作るのに尽力した土地の長など、3人を主神とした神社になります。
この浅草神社の歴史も古く、現在の社殿は1649年に建設されたものになっています。
1951年には神社の建物全体が、国の重要指定文化財に指定され、保護されています。
浅草寺に来た人が一緒にお参りする場合も多く、こちらも多くの人で賑わっています。
また神社で結婚式が行われている時もあり、その際には結婚式の列席者だけでなく、通りがかった観光客からもお祝いの言葉がかけられたりしています。
ちなみに、浅草寺の方は音読みで「せんそうじ」と呼ばれますが、浅草神社の方は「あさくさじんじゃ」と訓読みになります。
これは、お寺は中国から伝わった文化なので、中国語に由来する音読みになるのに対し、神社は日本固有の文化なので、日本固有の読み方である訓読みになるそうです。
まとめ
以上、浅草寺の歴史について解説でした。
ぜひ浅草寺に行った時には、本堂や雷門でその歴史を感じてみてください!
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